骨の髄まで食べ尽くさせてくれる「やま中」

      プレジデント社 『dancyu』 2007.8月号


 贔屓の店で人となりがわかる。
20年余り、ラジオ番組のインタビュアーをしてきてわかったことである。 これはほとんど百発百中と言っていい。

その世界で名をなし、慕われる人であれば、「うーむ、流石(さすが)」と納得させる店を推挙なさるものだ。 年収や趣味や夢を尋ねるよりも、人間の本質があらわに浮かび上がる。
金持ちのくせに、「ボクはB級、いやC級と言われる店を探すのが好きでね」などと言う男には決して近づくまい、とも学んだ。 心根が脆弱で向上心に欠ける。

 また、「安い店がいい」と言う男は、モテるのを放棄したと自ら暴くのと同義である。 女は高い店にしか関心がないと、なぜおわかりいただけぬか。 ことほどさように店選びは己を諮られる指針となるのだから、もし自分が聞かれたら飛び切りの名店をスパッと一刀両断、明確に答えたい。 そう思いを定め生きてきた。

 大仰ではなく、もともと生家は長崎の料理屋だから食い意地は張っている。 修行を積みました。 格式の高い店に入っても怯(ひる)みたじろがない通人としても自己形成のため、場数を踏み、授業料を惜しまず、鍛錬を重ねて月日を送ってきた。 私のほうからいくら秋波を送っても、肝心の店側が受け入れてくれなければ、万事休すなのだから真剣だった。 狙い、通い詰め、相性や居心地の良さを幾度となく確認し、そして私が惚れたのは「やま中」だ。

 何といっても、私は魚が好きなのだ。 毎日刺身と寿司が食べたい女なのだ。 魚の全贓物までも、あれこれ指図して骨の髄まで食らい尽くしたいから、わがままの通りやすく包丁捌きの妙を堪能できるカウンターを愛するのだ。

 当然、そのカウンターはピカピカに磨き抜かれて妖しいばかりの光彩を放つ。 清潔を第一とする料理人しか信用しないと私は決めている。 ちなみに「やま中」の掃除風景は一見の価値がある。 驚嘆すべき念の入った掃除を、私は芝居見物のごとく眺めて飽きない。

 なおかつ私はスープならスープだけしか卓に置いてないという、時系列的な食事を寂しく感じる人間である。 煮付けの脇に珍味塩辛もあり、青唐辛子や薬味の効いた小皿も欲しい。 気まぐれに「キムチ」と無体に言えば、「ちょうどもらいものが」と応えてくれる機敏さは無常の歓びだ。  無論、そのためには職人さんたちに差し入れ怠りなく御機嫌もとる。 何事も手間をかけずに釣果は得られないから。

 ここには熱気と磁場がある。

 建築物の要諦は無駄な空間と直線の美だと考えるが、見事、磯崎新の設計は、そのツボを押さえていて気分が高揚する。 マグロ色した大壁面を背景にして右へ左へ乱舞する白衣の群像は、眼福だ。 大入りの客のさんざめが端々から谺(こだま)して、ハレの場にふさわしく、身を置いているだけで肩身の広い思いがする。

 小宇宙である寿司屋しか評価しない方々には、到底理解不能であろうが。 「ウチは、夜は居酒屋ですから」が口癖の大将は、独創の肴の連発で客を沸かし、春夏秋冬、期待を裏切られたことがない。 自ら窯元を巡って集めた豪放な器に盛り付けた山海の幸は、オブジェと呼びたくなる立方体を成し、野の花のあしらい方には茶道家の風格がある。

 うれしいにつけ哀しいにつけ行きたがる私の心理を分析したが、これはもう店との醸成された友情だと思い至った。 モンテーニュ曰く、「交際の完成の極致は友情である。 古代人のいう4種類、すなわち生まれつきによる交際、社会生活の交際、主客間の交際、性愛による交際は、単独でも、束になっても力を合わせても、友情の境地に達することはできない」と。

大将の弟子への視線にも哲学がある。

 「料理人は感受性が必要ですが、そのうえ人間的に何か一癖あるのが伸びます。 基礎は地道にやるべきだが、素直一本だとある程度までしか伸びない。 一癖あると持ちこたえる。 人の出せない味が出せるようになる。 そのうち枯れていって良くなるんです」

述懐する大将・山中啄生こそが、熟練の癖の持ち主である。

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